前ページMAPの続きを少々・・・

『ニューバランス』 が水没した 『トロッコ用トンネル』 を抜けると、ほどなく切り立った海岸べりに出ます。200メートル位歩くと、例の 『木の看板』 が見えて来ます。西日が切ない・・・

ちなみに真っ直ぐ行くと、当時の 『船着場』 に行く事が出来ます。



『烹炊所』 の内部です・・・
『超・荒れ放題』 です。夕暮れ時にこんな場所に一人でいるのは、マジで怖い・・・重厚なコンクリートの壁とは対照的に、内部には時代を感じさせる木の残骸が無数に散らばっていました。

写真を撮影していると、後ろで 『パチッ』 と木を踏んで割れるような音がしました。振り返ると、勿論、誰もいません。静寂そのモノ・・・この場合、静か過ぎる事が恐怖心をかき立てます。

『幽霊の正体見たり枯れ尾花・・・』 昔の人はうまい事を言ったモノです。



『烹炊所』 からレンガの 『事務所』 に行くまでには、ご覧のように大きな木がいくつも立ちはだかります。

森の中で目を凝らすと、20メートル程先に 『事務所』 が見えるのですが、足にツタがからまり、なかなか前に進めません・・・ ここでも、ツタの間から手が出て来て、足を引っ張られそうな気がしました (苦笑) 。

この頃になると、日は沈み、空は灰色に・・・ そして、ジワジワと夕闇が迫って来ます。“森の色” を見て頂ければ、状況がお分かり頂けると思います。



『事務所』 の前には 『井戸』 が・・・
やはり 『古い井戸』 は怖い・・・
『来る、きっと来る・・・』 

何も写ってないですよね(苦笑)。



『MAP-15』 の切り立った海岸べりを覗き込むと、人工的に切り出された、もの凄くエッジの立った石が無数に散乱していました。

戦争当時のモノだと思われますが、どう言った経緯のモノかは不明・・・
美しい海の景色とは対照的な、アンバランスかつ不思議な光景です。


て、ようやく今回の目的地 『亀ヶ首旧海軍工廠大砲試射場跡』 に到着した頃には、午後4時を大きく回っていました。写真をご覧頂ければ、お分かり頂けるかと思いますが、日は大きく西に傾き、帰路の事を考えると、長居は出来ません。

早速、草むらを分け入り、『アンコール・ワット』 のようになった 『試射場』 の “本丸”へと入り込んで行きました。

ここで、少しこの試射場の事を少しご紹介します。歴史は大変に古く、明治31年 (1898年) に 『呉海軍工廠砲煩 (ほうこう) 実験部』 の 『試射場』 として設置されました。
その後、昭和6年 (1931年) に今風で言うところのリフォームが施され、コンクリート造りの『事務所』、『観測所』、『測圧室』、『信管調整室』などが設置されました。現在残っている建物の多くは、この時、設置された物になります。

『烹炊所 (ほうすいしょ) & 食堂』
戦争中の物とは思えない位、よく出来たコンクリートの建物です。見方によっては、バブルの頃に過剰融資を受けて “回らなくなって、飛んだ” 不動産屋のビルにも見えます (笑)。内部は非常に広く、とてもひんやりとしています。

ちなみに 『烹炊所』 とは、『海軍』 の 『厨房』 の事です。したがいまして、『大和』 などの 『戦艦の調理場』 も 『厨房』 とは呼ばず 『烹炊所』 と呼ぶのが正解です。

この 『試射場』 は色々な 『戦艦』 の色々な 『大砲』 の 『試射』 や、『
防禦甲板 (ほうぎょ かんぱん)』 や 『防禦構造の実弾首徹試験』 などを行ったそうです。ちなみに、『大和』 に関する物としては 『46センチの主砲』 だけではなく、艦に装備される 『甲板昇降口の蓋』 や 『出入口の扉』 『通風筒頭部』 などの 『耐爆試験』 もここで行われました。

『事務所 & 高等官詰所』
とてもイカした建物です。それもそのハズ、この 『レンガ』 は、本家本元の 『イギリス製のレンガ』 を使用してあるそうです。敵国の素材を使用した建物を 『事務所』 にするとは、当時の日本人は、我々が考えるより 『フランク』 で 『キャパシティが広く』 その上 『オシャレ』 だったように思います。

事実、日本人は 『優秀』 だと思います。その 『優秀』 というキーワードの中には 『フランク』 とか 『オシャレ』 とかと言うジャンルも、含まれていると思います。だからこそ 『大和』 と言う 『世界に誇れる戦艦』 を造る事が出来たのではないでしょうか ?

さらに、ここでは 『新しい巨砲』 が 『試作』 された際、この地に 『プロトモデル』 を据え付けて、対岸の 『四国・松山方面』 に向けて打ち出す 『試射実験』 を行っていたそうです。

『松山方面の人、ゴメンなさい』・・・ 『昔の呉人』 に成り代わり、『現役の呉人』 を代表してお詫び致します(笑)。

『測定室』
『レンガの事務所』 からほどなく歩くと、屋根が 『二重のドーム構造』 になった建物に遭遇します。森の中を歩く事が出来るのも、ここまでです。

この建物は 『弾道の速度計算』 や 『砲弾の貫通力』 を含め 『敵に与えるダメージの検証』 等、非常に重要な役割を持つ部屋だったようです。どうりで、森の一番奥に配置してある訳だ・・・
すでにこの頃 『高速カメラを使用』 して、『四次元』 『五次元』 『六次元』 の検証まで行っていたとの事です。・・・ちなみに終戦後、『海軍工廠』 の 『技術屋』 の多くが 『呉』 に残り、その後の宇宙開発や造船技術の躍進の一旦を担っていった事は、皆さんもご存知かと思います。

20代の頃、県外に 『VESPA』 の納品に行って 『呉から来ました。』 と言うと、年配の方には、決まって 『軍港だった街ですね。』 と言われたモノです。そう、今でも 『呉』 には軍港当時の 『神の手を持つ伝説の技術屋さん』 が何人もご健在ですよ。

さて、いかがでしたでしょうか? 『戦争の史跡』 を見ると 『戦争を知らない世代』 の僕から見ても、色んな事を自分なりに考察してしまいます。悲しい歴史ではありますが、この 『亀ヶ首旧海軍工廠大砲試射場跡』 の建物だけで感想を言わせて頂きますと、『技術屋としての壮絶なまでの戦い』 を見たような気がします。僕自身 『レストア』 と言う 『技術屋のはしくれの仕事』 を20年もやっています。

全てではありませんが、彼らの苦悩も共有出来る部分があります。それは、技術屋を生業とした以上、戦争中は 『人を殺すモノを製作する以外に方法が無かった』 という事。先に述べた、僕がここで見た 『壮絶な戦い』 とは、技術屋としてのプライドと、人間としての良心に、日々葛藤する、若き技術屋達の悲しい影だったりします。


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『MAP-15』 の海岸べりを歩いていると、右側に 『木の看板』 が出て来ます。こんな場所にまで配置した方のご苦労が伺えます。

『超・放置状態』 の為、恐ろしい程の荒れようです。『看板の →』 に沿って行くと、途中から道が無くなりました・・・(苦笑)。
下の写真の赤い矢印の部分に、最初に遭遇する 『烹炊所』 の 『建物』 があるのが分かりますか ? 目を凝らさないと確認できません・・・



『烹炊所』 の中から、『海方向』 を見た様子です。今は草が伸び放題で、見る影もありませんが、もしかしたら、当時はキレイな海が見えていたのかも ? しれませんね・・・

でも、そんな訳はないでしょうね・・・
時は 『戦争真っ只中』 です。『食堂』 でご飯を食べながら、『海がキレイだね。』なんて 、口に出す事さえ、許されなかったのかも ? しれませんね。



ここの建物達は、放置のされ方が尋常ではありません。大きな木が倒れ、朽ちてコケが一面に自生しています。
まるて、建物と木の 『ワンピース構造』 です(笑)。

『アンコールワット』 のような雰囲気もありますが、ツタの絡まっている感じは、『タイ』 の 『アユタヤ遺跡』 のようでもあります。
次に行く機会があれば、大きな仏像の首でも置いて帰ろうか ?
ほどなく 『呉のアユタヤ』 になるかも ? (笑) 。



遠くに見える 『石積みの防波堤』 が、当時の 『船着場』です。何故、近くに行って撮影しないのか ? って・・・

『その@』 スニーカーが水没して、歩くのもままならない。『そのA』 日没で足が冷えて、痛くなって来たから・・・ 『そのB』 カメラバックが重い・・・などの要因が重なり、歩いて行くのが 『めんどう』 になったからです。(笑)。



帰路での一枚・・・
怖い 『トロッコ用トンネル』 を抜けて、海岸まで戻って来た頃、辺りは本格的に闇に包まれ始めました。

夕焼けが完全に消えてしまう瞬間は、切なくて美しい・・・
『60年前と景色が同じ』 だと思うだけで、何だか、胸が一杯になります。